ADHDと元JW―その2
つづき
ということで、産まれたときからずっと、
「ダメ」と「〜すべき」に囲まれ、
出来なければお尻を叩かれるなどして強制されてきたので、
今の日常生活において自分で考えて、組み立てて何かをする、完遂するという能力が壊滅的に低いです。
宗教的な活動においては指針が示されているからそれに乗れば良かったけれど、
離れた今は指針が自分なので、自分を捨てて生きてきたため、何をするにも時間がかかるわ、出来たと思ってもとても質が悪いのです。
いざ意見を求められる場面がきても、うっ…と止まり、
考え考え…でも早く答えねば!待たせてはダメだ!と、〜しなければならない、〜してはダメだの呪縛から離れられず、
トンチンカンな回答をしたり、とりあえず人の意見に賛成して終わるということになります。
ADHDは、不注意・多動・衝動性が特徴ですが、
私のその傾向は、ずっと〜してはダメ、〜すべきが常に渦巻いた脳から不注意と衝動性を生み出し、
そこに抗うように、それを考えないように、自分がやりたいようにやるように多動で心のバランスを取っているのではないかと思うのです。
時代の流れからADHDの情報が探しやすくなったり、宗教2世の経験談がいくつも読めるようになり、
自分が何者なのか、私にも色々な事に挑戦するチャンスがあるのだと考えることができるようになりました。
幸い結婚して子供もいて、健康で働くこともできます。
それが当たり前のようで全く当たり前でないと感謝することもできています。それなら、
人よりケアレスミスの数が多くても、
言ってはいけない事までつい言ってしまっても、
無駄に歩き回って時間を消費しても、
別にいいや。
遺伝的なものもあるというから、子供も苦労するかもしれません。
でも、きっと、ミスを減らす工夫を重ねて努力をしていれば、必ず認めてくれる人、支えてくれる人に出会い、なんとかやっていけるはずです。
なにより小さなことに感謝する気持ちを忘れなければ。
絶対に人は助けてくれます。
宗教活動に熱心だった母はすでに病気で亡くなりました。
愛情深い人で、とにかく一生懸命な人でした。
そしてお茶目で明るかった。
もし私のADHDらしい特性を宗教活動が生み出したものだとしても、母を恨むことはありません。
母は目に入れても痛くないほど大事にしてくれたし、
きっとだからこそ自分が信じていた、
神を信じ行動するものが救われるという聖書の教えを守らせたのでしょうから。