1世として生きた母~つづき
ずっと変わらない
まだ母が宮崎に完全に移り住む前、
私は第1子である娘ぴーこを産み、時々母はうちに遊びに来て可愛がってくれました。
飲んでいる薬の影響があって、常に眠気と戦っている状態なので娘を預けることはできませんでしたが、一緒に苺を食べたり、冬は雪遊びをしたりしました。
ある時、やっぱり孫は目に入れても痛くないくらい可愛い?と聞きました。
母は、そうねぇ、すごく可愛いけど、〇〇ちゃん(私)の方が可愛いと言っていました。
この言葉はずっと私の心でピカピカと光り続けています。
母はエホバの証人の1世として、一生懸命愛を体現しようとしていました。
でもそれ以上に母の根本的な、人間としての深い、本当に深くて強い愛がありました。
そしてそれを何一つ出し惜しみすることなく、父にも兄にも私にも与えてくれました。
病気になった母に冷たくした私にもです。
そして世の人と結婚して排斥された、本来は口を利いてもいけない私にもです。
会衆の兄弟姉妹にも常々家族のことが大好きであると全く遠慮することなく話す人でした。謙遜して兄や私を悪く言うことは1度もありませんでした。
そんな母が宮崎に滞在することになり、時々連絡するのですが、連絡後に寂しさが募りパニックを起こしてしまうと伯母から伝えられました。
だから極力放っておいてほしいと。
こちらとしては、母に近況を伝えたい、特に私は孫の顔を写真でも見せてあげたいところでしたが、それが結果的に面倒を見てくれている伯母や叔父に迷惑をかけることになってしまうということであまり連絡をしないようにしました。
私は第2子の息子ぴーすけが産まれてから結婚式を挙げたのですが、結局母をこちらへ呼ぶことも、写真を送ることもできませんでした。
パニックを起こすと、死ぬためでしょうか、包丁を持って家を飛び出したなどの報告がくるのです。
様々な葛藤がありましたが、結局父と伯母達に従うまででした。
最期まで
母が宮崎で暮らすようになって7年くらい経った、第3子が1歳の頃です。
突然母が倒れたと連絡が入りました。命に係わるレベルで肝臓の値が悪いと。
正直このころの記憶が曖昧です。
兄と連絡を取り、とにかく急いで宮崎に向かうことにしました。
どれくらい滞在することになるかわからなかったので、子供たち3人も連れて行きました。これは正しい判断だったなと今思います。
母には知らせずに皆で病室に行くと、母は目を見開いてびっくりしていました。
でも喜んでくれ、好きなDVDを見せたり、お気に入りのぬいぐるみをベッドサイドに飾ったり、子供たちは折り紙を折ってプレゼントをしたりしました。
主治医から話を聞き、ほぼ確実に今回のお見舞いを最後に私は母に会えなくなるだろうと思いました。
カサカサになり、肝臓が機能していないせいで象のようにむくんだ足や手をマッサージしてあげました。温かかったです。
そして、宮崎に来る前、義母がメールをくれていました。
「私は亡くなった母に、最期にありがとうを言えなかったことをとても後悔しています」
絶対に言おうと思いました。
言い尽くせない感謝を、最後に、心を込めて、謝罪や後悔や尊敬や甘え、全部を込めて。
そして、東京へ帰る日。
最後の最後に、優しく母を抱きしめて、
産んでくれてありがとう、ここまで育ててくれてありがとう、本当にありがとうと伝えることができました。
母は、何で泣くのー!ママは絶対死なないから大丈夫だよ!とぎゅっと抱きしめてくれました。
ボロボロ泣いて、変わっていない母のぬくもりと匂いを体に染み込ませて、最後は笑顔でまたね!と別れました。
兄はその後も何度か宮崎に顔を出したようですが、私は3人の子供の面倒もあり、かないませんでした。
それから数か月後、伯母から訃報を受けました。
腹水が溜まって苦しい思いもしながら輸血も拒否し、最後までエホバの証人として生きました。
すぐに子供たちを義母に預け、宮崎へ。
いわゆるお葬式はしませんが、葬儀場の1部屋をお借りして、1晩だけ母と過ごしました。
母の好きだったスイートピーの花束をお棺に入れ、冷たくなった手に触れ、もう一度ありがとうと伝えました。
翌朝すぐに宮崎を発ったので、火葬にも立ち会っていません。
きっともう宮崎に行くこともないかな、母はどんな気持ちで東京に出てきたのかななど、一人飛行機で考えながら戻りました。
真理とは
享年60でした。私が中学校の頃から病気を患って15年以上。ずっと薬漬けで、体も心もボロボロのまま、家族とも離れて生きた母の人生。
人生とはなんだと考えさせられました。
永遠の命とは、楽園とは、真理とは。
家族、愛、信頼、すべて不確か、ゆるぎないものはなく。
母は幸せだっただろうか、復活を信じていたけれど、それで本当に満たされていたのか。希望ってなんだろうと思います。
組織的には死ぬまで信仰を貫いた素晴らしい人扱いなのか。楽園にいけるから良かったね!なのか。
母は本当に最期まで強く優しく明るかったです。私はその母のように、目の前にいる子供たちに愛情を注いでいくつもりです。
親孝行ができなかった分、子供たちに愛を伝えて、幸せとは何なのか、考え続けていきます。