1世として生きた母
家事も子育てもエホバの証人としても
私の母は宮崎県生まれで、大学進学のために兄を頼って東京へ、在学中に父と出会い結婚、1年ほど小学校の先生として働き、兄を妊娠したのをきっかけに専業主婦になりました。
千葉にいた姉がエホバの証人だったので、連絡を受けた地元の会衆から姉妹が派遣されて訪問を受けたようです。
訪問を受けた頃はちょうど父親が亡くなった直後だったとかで、復活の希望を聞いてすぐに研究を始めました。
家への訪問、聖書研究の司会を請け負ったのは特別開拓者の経験もあった姉妹だったこと、またその姉妹も宮崎県出身だったらしくすぐに打ち解け、順調に伝道者、バプテスマを受けるまでになりました。
父は最初は結構な反対をしていたようです。出版物を捨てたり、集会や奉仕(伝道活動)から帰ってくるとチェーンがかかっていたり、離婚を切り出したり。
ただ、反対を受けるのは正しいことをしているからだという教えなので、めげるわけもなく、母は開拓奉仕を始めるようになりました。
私の小さい頃の記憶にいる母は、よく机に座って聖書研究をしたり、手紙の証言をしたりしていました。
反対に遭いながらの活動だったので、家事育児に手を抜くわけにはいきません。
いつも忙しく掃除をしたり、料理をしたり動き回っていました。
愛情深い人
そして教員を目指して上京して夢をかなえるような人なので、兄や私にもとても優しく、明るく、父のことも大好きで、家族を心から愛していました。
聖書の教えのとおり、父には頭の権としていつも立てていました。集会が終わると交わりもそこそこに、主人が待ってるから!と私たちを連れてすぐに帰りました。
開拓奉仕の傍ら、学校行事にもちゃんと参加してくれましたし、たくさん褒めてくれました。
手芸も得意だったので、学校で使う鞄やポーチは手作りでしたし、私とはビーズや裁縫で一緒に時間を過ごしてくれました。
学校から帰ってきてからものみの塔の予習や家族研究をしなくてはいけなかったのは、子供なりに嫌でしたが、母が一生懸命子供を教えようとしていたのはよくわかっていました。
家族も大切にし、何よりエホバの証人として生きていた母は、責任感が強く、一途で、素直でもあり頑固でもありました。
病気との闘い
私が中学生の頃ですが、学校の役員に選出されてしまい、慌ただしい日々が更に忙しくなりました。
ある日インフルエンザと思われる高熱に倒れ、1週間ほど寝込みました。
関節が痛い痛いと辛そうでした。
中学生の私は当時いじめを受けていたこともあり、自分のことで精一杯で、今思うと母の方に意識がいっていなかったように思います。
母は関節リウマチでした。
とても綺麗な字を書く母は、指が自由に動かせなくなり、痛みも辛く、大変辛かったと思います。
膝も痛くなり、行動範囲も狭まりました。今まで出来ていたことが、思うように出来なくなりました。
エホバの証人としての活動も、妻として、母としてできることも限られました。
そして、完全に言い訳ですが、多感な時期だった私はそれが嫌で嫌仕方がなかった。ゆっくりしか動けない母を疎ましく思うようにもなりました。
そして母はうつ病になりました。
その頃父は仕事が大変忙しく、兄も私も学生として自分の生活でいっぱいいっぱいでした。
母を顧みる人が、寄り添う人が、抱きしめる人がいませんでした。
聖書でいかに愛が大切が学んでいても、ちっとも心に到達していなかった。
いや聖書云々以前の問題で、私には人としての大事なものが欠落していました。
母は追い詰められ何度も自殺未遂もしました。パニック障害も発症、常に誰かがいないと駄目でした。
会衆の姉妹たちの助けもあり、1日1日をなんとかやり過ごしましましたが、父には毎日仕事場や携帯に帰ってきてほしいと電話。出ないとパニックを起こしてしまうので、父も常に気を張る生活でした。
その頃私は高校生になっていましたが、家族全員疲れ果てていました。
パニック症・社交不安症・恐怖症患者さんのための 認知行動療法やさしくはじめから
兄も元々キレやすい人間だったので、弱っている母とよく衝突しており、私が学校から帰ってきたときには喧嘩していて、母が最終的に6階の我が家から飛び降りそうになるのを必死で止めることもありました。
家族崩壊
父も自律神経失調症、兄は統合失調症の疑い、私もうつ状態とメンタルクリニックで診断され、家族は綱渡り状態でした。
何年も、母が安定するために試せることは試し、可能な限り寄り添うようには努力しました。
それでも、宮崎にいる祖母(母の実母)が危篤になったのを大きなきっかけとして、私の結婚・育児などで家を出たこともあり、母は療養として宮崎で暮らすことになりました。
宮崎には3つ上の姉と1つ下の弟が住んでいて、基本的にどちらかが常に家にいるのと、生まれ住んだ実家の安心感、温暖な気候、高所恐怖症もあったので、6階の我が家から一戸建てになったのが良かったようです。
なぜ6階に引っ越したのか…恐らく父の希望を優先したんだと思います
もちろん宮崎で完全に安定したわけではありません。家族が大好きな人でしたから、当然寂しくて辛かったはずです。
宮崎と東京という簡単に通える距離ではないですし、高所恐怖症、さらに閉所恐怖症もあるので飛行機が乗れず、うつ病になる前の健康な時でも宮崎へ行くときは新幹線や寝台列車だったくらいで、気軽に東京に戻ることもできませんでした。
でもとにかく当時選べる最良の決断は、「宮崎で必ず誰かがそばにいる状況」でした。
つづく