自分を育てる
ADHDらしき特性と、エホバの証人として生きて獲得してきた物事の考え方(神に献身して自分を無にする)がいい年になっても未だに足を引っ張ってくる。
またブログの日が空いた。
一回モチベーションが下がったり飽きが来ると、浮上してくるまで時間が掛かる。
今現在の私のやりたいことは、
仕事(在宅&自営旦那の手伝い)
通信大学の勉強。
どうしても0か100かみたいな感覚が物心ついたころからあるから、
きちんと集中したい、集中が削がれそう(子供や家事、体調、旦那等々)な時は
やりたいこと、やるべきことに手を付けられない。
大人になって、自分の限界を知ったり、
老化をじわじわと感じたり、
出産でねじ1本どころか脳みそ溶けたかな思えるほどポンコツ度が増しているので
集中したところで100%自分の身になることができるか、
仕事で成果を出せるかというと無理なんだけど、
もう脳の癖がへばりついてしまっていて、なかなか頑固に自分で自分の首を絞めてしまっている。
そしてそうやって過ごしていると自己肯定感もどんどん低下していって
あれも出来ていない、これも出来ていないとマイナスの部分ばかりを拾い集めてしまう。
仕事であれも勉強したい、これもやってみたい、社会貢献したい、大学の勉強をしてコンプレックスを振り払いたい、趣味もやりたい、子供たちと出かけてたくさんいろんな経験をさせてあげたい。。。普通の欲求を実現させることに無意識に歯止めを掛けてしまう。自分のしたいことをするのに罪悪感を感じてしまう。
20歳のころにエホバの証人は排斥になったので、もう15年近く離れているんだから、もうそんなの忘れればいい、気にする必要ないと自分でもわかっているし、そのつもりで生きている。
でも、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、本当に自分を捨てて、それを自信に、誇りに生きていた時間で心に刻み付けた跡はなかなか消えない。
アダムとエバがエホバ神に背いたせいで、人間は不完全なものとして生きるようになり、それは型についた傷のようなもので、必ず後世に続いていく…と教えられてきたのと同じように、まさにエホバの証人として生きて刻まれた私の型はいびつなままだ。
それでも走り続けるしかなくて、子供もいるし、なんとか追ってもらえる背中になりたいから、少しでも手本になれるように私は頑張りたい。
100できなくても、たった1だけでも何か明日に繋がることを出来たら自分を褒めるようにしてる。
洗濯物を畳んだ、掃除機掛けた、洗い物やった。
画像編集を少しやった、新しい知識を得た、自分を否定しなかった。
なんでもいいから自分を肯定する癖をつけたい。
最近効果があったなと思うのは、日常の生活を楽にするものを遠慮なく取り入れること。
はっきり言って貧乏だから、高価な家電は導入できないけど、
例えば子供たちの水筒を洗うのが毎日イラっとしていたけど、シュッとスプレーするタイプの洗剤を取り入れた。
このほんのちょっとの楽が、自分にとってはとても程よく、洗い物のハードルが少し下がって、ちょっと片付けるか、という気分になる。
ただコスパは悪いので、水筒と1歳の娘が使っている細かい部品があるマグだけね。
ちょっとずつ、楽を取り入れるようにしてみて あぁ自分を知るって大切だなと思う。
思ったより自分のことを知らないものだなと。
こんなことにイライラするのか、こうするとテンションが上がるのかと自分を知ってあげようと心がけてみたらなんとなく少しずつ自分を救えてきた感覚がある。
きっと心が幼い頃に成長をやめてしまっているから、今少しずつ育ててあげているところなんだと思う。
焦ったところで何も始まらない。今できることを、きっと出来る、1つでいいから進めると自分を信じてあげて、七転び八起きでゆっくり進んでみる。