エホバの証人だったことについて
大抵のエホバの証人に関するブログや本などは、批判やどれだけひどい目にあったかを暴露する目的で書かれています。それだけの積もり積もった感情が手を動かすのでしょう。
私の立場は、
「私はもうやらんけど、信じている人の気持ちもわかるし、批判する人の気持ちもわかるから、何とも言えん」
って感じです。
<script async src="https://pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
<ins class="adsbygoogle"
style="display:block; text-align:center;"
data-ad-layout="in-article"
data-ad-format="fluid"
data-ad-client="ca-pub-7989839383263189"
data-ad-slot="6684755946"></ins>
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || ).push({});
</script>
エホバの証人じゃなければ、きっともっと自由に人生を謳歌していたはず、
進路も自由に、友人関係や恋愛、趣味や着る服も違ったかもしれないと思います。
就学前から、2時間ほぼ座りっぱなしで、講和を聴き、メモをとり、集中が切れているのがわかればつねられたり、帰ったらお尻たたくからね!と脅されたり、
行きたくなくても、雨が降ろうと、暑かろうと何時間も伝道活動について行ったり、自ら証言したり、
学校でも必要以上に友達と仲良くはしない、校歌や騎馬戦などの拒否のために証言したり、と課せられることは多かったですから。
でも、本気でもうすぐ楽園がくる、みんなで一緒に平和に暮らしたい、そのためには神に従わないと!神エホバの証人として活動しないと!って純粋に思っているわけです。
<script async src="https://pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
<ins class="adsbygoogle"
style="display:block; text-align:center;"
data-ad-layout="in-article"
data-ad-format="fluid"
data-ad-client="ca-pub-7989839383263189"
data-ad-slot="6684755946"></ins>
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || ).push({});
</script>
きっと宗教が身近になかった人からすると、何言ってるの?なんでそんな根拠もないことを信じられるの?落ち着いて?って感じですよね。
でも中の人としては、「空気は見えないけど確実に存在してる」って感覚で信じてるんですよ。当たり前なの、神が。聖書に楽園がくるって書いてあるもんね、じゃぁくるよ!じゃあ皆に教えてあげなきゃ!神に従う人しかいけないから、皆に伝えて仲間にしなきゃ!って。
その純粋さで、自分自身や自分の子供に輸血が必要になっても、(血を取り入れるのが聖書で禁止されていると解釈しているので)楽園いけなくなって永遠に生きられなくなる方が悲しい!と拒否するんです。
<script async src="https://pagead2.googlesyndication.com/pagead/js/adsbygoogle.js"></script>
<ins class="adsbygoogle"
style="display:block; text-align:center;"
data-ad-layout="in-article"
data-ad-format="fluid"
data-ad-client="ca-pub-7989839383263189"
data-ad-slot="6684755946"></ins>
<script>
(adsbygoogle = window.adsbygoogle || []).push({});
</script>
私の母は、元からとても純粋で素直だったのでそこに信仰が加わると、なおさら真っすぐに神を信じ、敬虔に教えを守っていました。
その姿をずうううううっと近くで見てきたので、きっと私は組織から離れてもエホバの証人を真っ向から否定できないんですね。
とはいえ離れたわけです、結局は。
排斥(強制的に追い出される)されたんですが、内容としては断絶(自ら離れる)でした。
排斥までの話はまた。